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ドイツにはもう雪景色 [記録]
so-netブログにはだいぶご無沙汰していた。しかし、twitterを始めてみて逆に長文はブログに書きたいと考えるようになったわけだ。
たとえば、このドイツのニュースだが、しばらく前からドイツにいる知人のツイートなどで、今年のドイツの冬の寒さは千年に一度の極寒の冬になるらしいというニュースが流れてきていた。ロシアでもおなじだそうだ。ドイツばかりでなくヨーロッパのかなりの地域が寒いらしい。昨日はフランスにいる方が今朝はマイナス1度だったといっていた。
それほどでなくてもオーストリアのウイーンにいる別のSNSの知人が黄葉の木々の写真とともに身を切るような風の冷たさだと伝えてきている。
そういっているうちに昨日は日本でも北海道は雪が降ったのだった。10月にササラ電車が走ったのはここ30年来の記録ではじめてだとか。同じひとつの地球に住んでいて、寒さがドイツやロシアだけで済むはずはないのだ。今年の冬は相当寒いものと思っていた方がよさそうだ。
アリス [日記]
不思議の国のアリスが成長して大人の年頃になりかけて、周りから結婚の話が出てきた時のこと。小さな子供だった頃に行ったあの不思議な世界に再び行くことになりました。そこでであったのは?
相変わらず時間を気にしながら走り回っているウサギに、ますます調子の狂うような帽子屋、相変わらずのチェシャ猫に、双子のトゥイードルダムとトゥイードルディー、昔と同じような登場人物たちに出会うのだけれど、今回のアリスは子供の頃とは違って、この国で新しい自分を発見していくことになるわけです。
これはアリスが一人の自立した女性になっていく過程とも見ることができる。家族やその知人に普通の女性の幸せの形としての結婚を勧められた女の子が、地下の世界(ユング心理学的に見れば無意識の世界化)に落ち込んでそこで出会った冒険を通して、自分自身になっていく物語とも見ることもできるようです。
不可思議な白の女王は、決して純白ではないところがティム・バートン流で、赤の女王もまたすべてが悪ではないし、物事にはすべて別の一面もあるということでしょうか。
相変わらず時間を気にしながら走り回っているウサギに、ますます調子の狂うような帽子屋、相変わらずのチェシャ猫に、双子のトゥイードルダムとトゥイードルディー、昔と同じような登場人物たちに出会うのだけれど、今回のアリスは子供の頃とは違って、この国で新しい自分を発見していくことになるわけです。
これはアリスが一人の自立した女性になっていく過程とも見ることができる。家族やその知人に普通の女性の幸せの形としての結婚を勧められた女の子が、地下の世界(ユング心理学的に見れば無意識の世界化)に落ち込んでそこで出会った冒険を通して、自分自身になっていく物語とも見ることもできるようです。
不可思議な白の女王は、決して純白ではないところがティム・バートン流で、赤の女王もまたすべてが悪ではないし、物事にはすべて別の一面もあるということでしょうか。
ご紹介など [記録]
キリスト教界(カトリックもプロテスタントも聖公会、正教会、全部含めての)のSNSにcandles(キャンドルズ)というのがあります。カトリックの方も結構参加しておいでですので、それがきっかけで読むようになったweblogもあります。
これは長崎の上五島の某神父様のweblogなのですが、目の見えない方のためにその週の教会での説教の音声も付いています。(聞くにはパソコンにプレイヤーを入れる必要があります)音声の説教も、目で読むものも、とてもよいお話です。よかったらご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/knkouji/
これの全体は神父さまのホームページ『話の森』に入っています。キャンドルズは招待制ですが、申し込んで待合室で待てばそのうち招待も来るはずです。(どのくらいかかるのかは知らないのでごめんなさい)
これは長崎の上五島の某神父様のweblogなのですが、目の見えない方のためにその週の教会での説教の音声も付いています。(聞くにはパソコンにプレイヤーを入れる必要があります)音声の説教も、目で読むものも、とてもよいお話です。よかったらご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/knkouji/
これの全体は神父さまのホームページ『話の森』に入っています。キャンドルズは招待制ですが、申し込んで待合室で待てばそのうち招待も来るはずです。(どのくらいかかるのかは知らないのでごめんなさい)
映画を見てきました [日記]
吉祥寺にあるバウス・シアターという小さなシネコンで、「ディズニーのプリンセスと魔法のキス」という作品です。本当は今日行くつもりではなかったのが調べて見ると明日までとわかり、あわてて出かけました。
今回はストーリーよりも画面の絵や色彩の美しさに魅せられて終わりまで全然気が抜けませんでした。さすが、ディズニーの作品は素晴らしいです。
カエルにされた二人の人間、王子と、レストランの経営を夢見る女の子を助けてくれた蛍が自分の憧れの彼女として紹介したのは空の星、エバンジェリンでした。二人を助けて自分は死んでしまった蛍は夢見ていた通りに自分も星になって憧れのエバンジェリンの傍に姿を現す場面の美しさ、これはDVDではなく大きなスクリーンで見たいところです。
しかし、こんな言ってしまえば只の漫画映画の中にまで、何かを感じさせる内容になっているのはやはりアメリカがキリスト教国だということなのかと改めて思いましたね。
なんといっても憧れの星の名前はエバンジェリンですよ。蛍の自己犠牲の死はあのお方の死と復活を思わせます。あのお方が復活したように蛍も星になって新しい命を生きるのです。
ディズニーの作品はやっぱりすごいなあ、と思わされた一日でした。
昨夜は寝ぼけまなこで書いて、エバンジェリンをエバンジェリスタとしていた間違いに気がつき、今あわてて修正しました。
今回はストーリーよりも画面の絵や色彩の美しさに魅せられて終わりまで全然気が抜けませんでした。さすが、ディズニーの作品は素晴らしいです。
カエルにされた二人の人間、王子と、レストランの経営を夢見る女の子を助けてくれた蛍が自分の憧れの彼女として紹介したのは空の星、エバンジェリンでした。二人を助けて自分は死んでしまった蛍は夢見ていた通りに自分も星になって憧れのエバンジェリンの傍に姿を現す場面の美しさ、これはDVDではなく大きなスクリーンで見たいところです。
しかし、こんな言ってしまえば只の漫画映画の中にまで、何かを感じさせる内容になっているのはやはりアメリカがキリスト教国だということなのかと改めて思いましたね。
なんといっても憧れの星の名前はエバンジェリンですよ。蛍の自己犠牲の死はあのお方の死と復活を思わせます。あのお方が復活したように蛍も星になって新しい命を生きるのです。
ディズニーの作品はやっぱりすごいなあ、と思わされた一日でした。
昨夜は寝ぼけまなこで書いて、エバンジェリンをエバンジェリスタとしていた間違いに気がつき、今あわてて修正しました。
吉祥寺教会の在世フランシスコ会に行ってみた(キャンドルズからの転載) [日記]
こちらも動かない石にはなりたくないので、とりあえずまずは吉祥寺教会の在世フランシスコ会の例会に参加してみました。同じ在世フランシスコ会野グループといっても田園調布や三軒茶屋では遠くてカルメル会の上野毛教会と大差ありません。長続きするにはなるべくなら近い距離と考えました。
もちろん、六本木や、聖母病院や立川教会あたりにもあるそうですが、どちらも不便です。吉祥寺ならすぐ隣の駅です。上野毛にいくときはここで京王線に乗り換えて渋谷にでて、二子玉川、上野毛です。とにかく遠いし、交通費もかかります。中川神父さまの講座なら交通費がかかってもそれだけの価値がありますから行きますけど、東急沿線はやはり大変すぎます。
なぜ急にフランシスコ会? 以前にリバス(sj)師の講座で大まかに観想の祈りを分けると、心の中に入っていって神と出会うカルメル的な観想と自分の外の世界を通して神と出会うフランシスコ的な観想に分けられると聞いたことがあり、そのことがずっと心にあります。
そして、この前、中川神父さまの大聖テレジアの霊性の説明で、人となった神、キリストの人性への注目、そしてカルメル会の幼きイエスへの信心の話をうかがい、そのむかし、イエスの小さい姉妹会の聖堂で初めて出会ったねんねしている赤ちゃんのすがたのキリスト像を思いだし、さらにはフランシスコ会のパドヴァの聖アントニオに抱かれている幼いキリストにまで連想が広がり、これは、人となられた神というキーワードで、カルメルでもフランシスコ会でも他の会の霊性でも互換性があるのではないか、と感じたことからでした。
もちろん、それ以外の生活様式の違いは問題ですが、キリスト教の信仰による神への道という点では中心は「人となられた神』、「キリストの人性」という点に集中するように思われます。であれば、上野毛教会ばかりではなくて、フランシスコの会のことももっと知りたい、自分の場を探すにしてももう少し探求の幅を広げたいと考えたわけです。
上野毛もさらに続けて参加しますが、なにがなんでもカルメルの精神でなければとは思いません。互換性のきくものはそれなりに実生活に合うものでいくのが現実的でしょう。祈りの生活自体が問題なので、身なり、形はなんということもないのです。形だけで中身がないことだってあります。
この辺でやめておきますが、とにかくいろいろ見てみたいと思います。
もちろん、六本木や、聖母病院や立川教会あたりにもあるそうですが、どちらも不便です。吉祥寺ならすぐ隣の駅です。上野毛にいくときはここで京王線に乗り換えて渋谷にでて、二子玉川、上野毛です。とにかく遠いし、交通費もかかります。中川神父さまの講座なら交通費がかかってもそれだけの価値がありますから行きますけど、東急沿線はやはり大変すぎます。
なぜ急にフランシスコ会? 以前にリバス(sj)師の講座で大まかに観想の祈りを分けると、心の中に入っていって神と出会うカルメル的な観想と自分の外の世界を通して神と出会うフランシスコ的な観想に分けられると聞いたことがあり、そのことがずっと心にあります。
そして、この前、中川神父さまの大聖テレジアの霊性の説明で、人となった神、キリストの人性への注目、そしてカルメル会の幼きイエスへの信心の話をうかがい、そのむかし、イエスの小さい姉妹会の聖堂で初めて出会ったねんねしている赤ちゃんのすがたのキリスト像を思いだし、さらにはフランシスコ会のパドヴァの聖アントニオに抱かれている幼いキリストにまで連想が広がり、これは、人となられた神というキーワードで、カルメルでもフランシスコ会でも他の会の霊性でも互換性があるのではないか、と感じたことからでした。
もちろん、それ以外の生活様式の違いは問題ですが、キリスト教の信仰による神への道という点では中心は「人となられた神』、「キリストの人性」という点に集中するように思われます。であれば、上野毛教会ばかりではなくて、フランシスコの会のことももっと知りたい、自分の場を探すにしてももう少し探求の幅を広げたいと考えたわけです。
上野毛もさらに続けて参加しますが、なにがなんでもカルメルの精神でなければとは思いません。互換性のきくものはそれなりに実生活に合うものでいくのが現実的でしょう。祈りの生活自体が問題なので、身なり、形はなんということもないのです。形だけで中身がないことだってあります。
この辺でやめておきますが、とにかくいろいろ見てみたいと思います。
ニュースに聖骸布公開の記事 [記録]
共同通信。
http://www.47news.jp/news/2010/04/post_20100410183904.html
日本の教会の場合、カトリックでは広く知られている有名な事柄も、プロテスタントではまったく知られていないということもあるので、とりあえず貼っておきます。カトリックに改宗するまで、ルルドのマリア様のことも、ファティマのマリア様のことも、不思議のおメダイも、なーんにも聞いたことがなかったのを思い出すのです。
http://www.47news.jp/news/2010/04/post_20100410183904.html
日本の教会の場合、カトリックでは広く知られている有名な事柄も、プロテスタントではまったく知られていないということもあるので、とりあえず貼っておきます。カトリックに改宗するまで、ルルドのマリア様のことも、ファティマのマリア様のことも、不思議のおメダイも、なーんにも聞いたことがなかったのを思い出すのです。
あれ、中身が消えた [日記]
昨夜、ケータイから送ったはずのブログがタイトルだけで中身が消えてしまっていました。どこかで操作ミスをしたようですので、あとでまた書き直します。以上とりあえず。
今、確認したところ、なぜかタイトルだけ、とんでもないところに届いています。新しいブログを作成するところに届いていたのでした、あららぁー、でもタイトルとしてそれだけ見ると面白いのでそのままおいておきます。使うかどうかはまだわかりません。
今、確認したところ、なぜかタイトルだけ、とんでもないところに届いています。新しいブログを作成するところに届いていたのでした、あららぁー、でもタイトルとしてそれだけ見ると面白いのでそのままおいておきます。使うかどうかはまだわかりません。
バチカン [日記]
どうしてこんなことになるのかと驚き怪しむ気持ちと同時に、この世はまだ完全な神の国ではないから、何があっても不思議ではないということだろうとも思う。キリスト教自体、カトリックの教え自体はどこも間違っていなくてもそれを取り扱うのは弱い、壊れやすい土の器と呼ばれている人間なのだ。
自分のわずかな経験から言っても、教会だからといってすべてが清く正しく美しくあると思ったら大間違い。まだこの世にある教会は一般の人間社会の一部でもあるのを忘れてはいけない。本当の話、何でもありなのだ。
しかし、それでもキリストの教会はこの世の世間一般とまったく同じではない。とんでもないスキャンダルもいくらでもあるだろう。売僧というしかない存在だっているだろう。一般社会でだったら許されるわけのない話などいくらでもあるだろう。しかし、それでもこれは神の立てられた教会だ。キリストの教会だ。この二千年、教会の歴史を見れば、昔からいくらでも悪い話はあったことがわかる筈だ。
教会の歴史はたくさんの聖人の歴史、善なる人々の歴史であると同時に罪人の歴史なのだ。確かに、悪は悪だが、この教会は聖なる罪人の集まりなのだということは忘れられてはならない筈だ。キリストはこの人々、つまり私も含めたすべての人を許すためにいらっしゃったのだから。
教皇様個人を責めるより、今後、教会としてどうしたらこんな事件を防げるのかもっと本気で考える方が先ではないのだろうか。組織の中では大変な問題も隠せるのを実際に見たことがある。でも、個人に責任を負わせれば解決するような問題なのだろうか。心理学や精神医学の助けも借りながら、もっと問題の根本的な原因をきちんと見直さなくてはいけないのではないだろうか。
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